開カズノ扉?
今回の駄文は大昔に某MLにPostした文を加筆修正したモノです。

無限、STIと渡り歩いた後にマツダスピードにアプローチする段になって、以前に描いてあったエンジン部品の図面を「こんな事も出来ますぅ」って見せたのがこのミョーな運命の引き金だった。

当時マツダスピ−ドはフランスのル・マン24時間レースに参戦を続けており、時々のルールに則ったレーシングカーを仕立てて挑戦していた。それは一貫してロータリーエンジを搭載しながら、RX-7の形をしたものからやがてCカーと呼ばれる純レーシングカーに変貌して行き、総合で5位から10位程度の成績を残しながらも表彰台には一歩届かずって辺りの位置に居た。私が入社した1990年後半は、6月のル・マンで又も完走にとどまったマツダ787の改良型マツダ787Bの設計に入っていた。当然の如く私のようなレシプロエンジン屋の需要は無く、私を入社させるかに付いては結構モメたらしい。(^^;;;
でも何故か入社してしまった。ソコに待っていたのは丸で畑違いの車体設計という災難であった。ちょうど三人居た設計のうち二人が退社するタイミングに当たってしまったのだ。

ここで車体設計の何たるかの説明ヲバ。
まずチーフデザイナーが居ます。ナイジェル・ストラウド(英国人)、この人は本当に基本設計だけ。タッチするのはサスペンションのポイントや強度設計、空力設計などで、日本人設計者を交えて風洞実験が終わった辺りで日本に引き継ぎます。
風洞はUK・MIRA、モノコックはハーキュリーズ(だったかな?)ですが、大物でUKから入って来るのはモノコックとトランスミッション、アップライトくらいな物でした。カウルは100%日本、細かい専用ボルトに至るまで日本や海外の部品メーカーと折衝しながら日本側の設計・手配でモノを作り、当時月島にあったマツダスピード社屋内で組み上げるのです。
設計と言ってもCADなど影も形も無く、A0*1.5クラスのドラフターが三台横に並ぶと通路しか残らない狭い設計室でシコシコ手描きし、白々と明けかかった頃やっと倉庫からダンボールを持ち込み誰かが起してくれるまで泥のように眠るのでした。

さて、時は787B設計の真っ最中、風洞が終わって基本コンセプトが固まったあたりである。つまり図面らしい図面は殆ど無かった。
退職組二人とは一ヶ月程度はラップして働きました。で、今回のお題であるドタバタはこの絶妙なタイミングを火種としていたのです。

風洞のクレイモデルで車体シェイプが決まったと言ったって、ホンのスタートに過ぎない。先ずやるのがカウルのカットラインを決めて発注する事だ。プラモでパカパカと外れるでしょ? そのラインをカットラインと言います。
カウルの製作ってーのは実に時間が掛かるもので、最初に決めてスタートさせないと大変な事になる。その二人はその作業を急いだ、フロント&リアカウル、サイドポンツーン、ドア...ドア!
翌年のCカーレギュレーションで、「ドアのロックは引いて開けられるようにすベシ」っていう変更が入っていた。従来はポルシェ956が使っていたプッシュタイプをパチって来て使っていた。ウチだけでは無い、色んなチームがソレを使っていたのだ。
その二人にはドアロック機構まで設計する時間的余裕が無かった。で、どうしたか? 何と取っ手が納まる凹みだけ決めて退職したのである。

一口にドアロックと言うが、コレがナカナカに難物である。
これまでのレースでも、走行中にドアが吹き飛んでオレンジボール、ピットで開けておいて風に煽られ閉まりロック機構が破損しリタイア、やはりピットで閉まらず大立ち回りの末の大タイムロス...ナドナド珍事に枚挙のイトマが無い。
それに加えてドライバーが大変に気にするのだ。クローズドボディで火でも出て開かないではシャレにならない。

そんなモロモロの脅かしと共にポルシェのプッシュタイプが私の元に廻って来た、「プルのロック機構を設計してね、収まる凹みはコレだから」と言うわけだ。
うぎゃー、そりは順番が違うだろー! 機構があった上で取り付け部を設計するモンじゃねーか? などと騒いでも遅いのである。
さあカウルが出来て来た、モノコックに被ったぞってのはご想像の通りギリギリだから、私はと言えば線が引いてあるだけの紙を相手に全てを紡がねばならない。当たり前に感じるでしょ? でもね、カーボンのカウル同士の精度なんて計算できないのよ。ドアの動きだって3次元だしぃ。(T_T)

まぁ細かくは省きますが、リンク機構のアウトラインを閃くまでに4日はボーゼンと座っていたと思う。特に留意したのはフェールセーフ。ドアが開こうとするとロックが深くなるような爪のデザイン、車外からメカが見たときロック・アンロックが明瞭に判る事、それに何よりシンプルな事!などです。これらを全て新規で設計するにも関わらず、収まるスペースは既存であり変更は出来ない...
それでも何とか捻り出してドラフターに向かい、総組み図から始まり、材料を吟味し、スペースの制約から来る特殊ボルトからリターンスプリングに至るまでを描き上げた。
設計部門のチーフに御伺いを立てると、「この75S(超々ジュラ)の部分、全部チタンにしちまえ」とノタまう。まぁ望む所であった、ドライバー側から引かれる部分にカムを使っており、ソコがアルマイトではチト不安だったのだ。
さて図面は出来た、見積もりだ...どしぇ〜、 一組60万! Cカー1台分のドアロック2個で車が買える!!

これは流石にモメた。設計チーフはチタンを譲らない、上の方は「駄目!」の一点張り。終いには「鉄で作ったらどうだ」と言い出す始末。
コレには私がキレた、「鉄だったら鉄なりの設計っちゅーモンがあるんだ、今さら鉄なんぞに戻せるか!」

最後は上が折れてGOになった。チーフも私の設計の肩を持って支持してくれたし、何より再設計を免れてホッとはした。
しかし1Set60万である、2台分、スペアも入れて6Setは作ったように思う。幾らだい? 360万! ドアロックだけで360万はサスガにビビる。同僚メカからも「コレで(ガルウイングである)ドアが落ちた時に自然に閉まる?」などと疑問を呈されマスマス不安は募るのだった。
ドアの立て付けは本当に最後の最後、シェークダウン直前、サーキットの占有も押さえた後になるのは目に見えている。「閉まりません」では済まないのだ。

さぁー出来てきた。自分で組んでみて、思惑通りに動いてニンマリしたが、まだ実際に装着してみないと分からない事もある。そしてシェークダウン直前、設計もメカも徹夜徹夜でボロボロになって来た頃、その運命の時はやって来た。

ヒンジを工作してパタパタとドアが動くようになり、ロック機構もメカの手で取り付けが進む。
パチン...と何事も無く閉まった。ムクムクと嬉しかった。周りも固唾を飲んでいたので、「やるジャン」ってことで大喜び。(^o^)
さぁ無事に閉まったし休憩を...って所で誰かが開いていたドアを引っ掛けて倒した。 バタン!って何事も無く閉まったのである。 ブラボー

何もドアロックだけをやっていた訳では無い、並行して様々な図面を引き、加工屋やファイバー屋と打ち合せを重ね、それなりに色んなドラマがあるのだが、やはりこのドアロックが一番の心配事であったし喜びでもあった。
気になるので他のメーカーのロック機構も見て歩くのだが、贔屓目かウチのが一番シンプル&ビューチフルに感ずるのでありました。

実戦に出てもソコは何らトラブらず、淡々と24時間レースのあいだ役目を果たし、日本車初となるル・マン総合優勝となりました。1991年6月の事です。